しかし,そうはいっても,例えば,1899年招集のハーグ平和会議などは,今でも言及されることが多いようなので,順々に(できる限り)追っていきたいと考えています.
また,長い話をはしょって言うのなら,1970年代までの軍縮交渉は,とりあえず今に繋がるもの(NPTなど)がありますが,むしろ軍拡の見本市を追うことになります.冷戦の最中に軍縮もへちまもないわけです.そんなもの読みたくない場合は,3.へどうぞ.
...しかし,こういう会議あるいはそこで決められた条約というものがどの程度,役に立つものなのか,効力を発するものなのか.「そんなの絶対イヤだ」といってその連盟なり会議なりを脱退したらどうなるのか? それ以降,その会議,連盟に名を連ねる場合には,法的にはいかなる処置が取られるのか.はたと考えれば,日本は国際連盟を脱退したことのある国であるだけに複雑な心境ではある.
五体国の特権は,そもそも国連が,第二次世界大戦の勝利連合の国々の集まりなのだからやむを得ない,もはや止めようがないという意見もあるだろうが,他に代替機関がない以上,今それを言ってもどうにもならない.しかし,この特権のゆえに,国連に対して無力感を抱く人々は多い.
1946年1月 国連総会が,「国連原子力委員会の設立に関する決議」を採択.この委員会で,
アメリカは「バルーク案」,ソ連は「グロムイコ案」を提起.
バルーク案は,
1.国際原子力機構という,超国家的機関を作り,ここに原子力の国際管理をさせる.この機構が原料,施設を独占的に所有し,核兵器を独占的に研究する.
2.原子力の国際管理を段階的に進め,原爆の製造禁止と廃棄を行う.
3.原子力の問題については5大国の拒否権を認めない.
対するグロムイコ案は,
1.いかなる事情のもとでも核兵器を使用しない.
2.核兵器の生産・貯蔵を禁止する.
3.「原子力兵器禁止条約」発効後3か月以内にすべての核兵器を廃棄する,といった内容.
大ざっぱに言えば,アメリカは当時唯一の保有国であり,それを手放そうとも考えてはいない.であれば,より現実的に管理機構を作る方向を目指す.しかし「国際管理機構」が,アメリカと一体であったろうことはいうまでもない.他に誰もまだ持っていないのだから.さらには,いずれ近いうちにソ連が開発することはわかっているのだから,アメリカとすればその前になんとか有利な体制を作りたかった.
一方のグロムイコ案は,一見素晴らしく核廃絶を希求しているかのようだが,そんなことは全くなく,
1949年9月,ソ連原爆の実験成功.これによりアメリカの核の独占状態が崩れる.
急に気が変わって原爆を作ったなどという話ではないことはいうまでもない.
1949年まで,核兵器を持っていたのはアメリカだけであった.アメリカとしては,このまま核を独占し,主導権を握っておきたい.表向きの理由は国際管理ではあるが,実際に意図されていたところは,核開発のソ連参入阻止である.核の独占体制を維持するために,ソ連を武力で脅す,あるいは,万やむを得ない場合には,開戦もやむなしという意見が,西側(アメリカではないところでも)の知識人の中にはあったようだ.
その間日本はといえば,1951年9月サンフランシスコ対日講話会議が開かれ,対日平和条約(翌年4月発効),日米安保条約の調印という状態であり,人々は「戦後」だと言っていたのだろうが,世界(少なくともアメリカとソ連)は第二ラウンドもやむなしの状態であった.
国連原子力委員会は1952年1月に解散.国連軍縮委員会が創設された.
広島の原爆犠牲者慰霊碑の除幕式は1952年.ということは,1発の原爆がもたらした惨禍が未だ生々しい一方,人々は水爆という巨大な威力が遙かに遠くへ飛ばされるという時代を見ていたことになる.
1954年3月アメリカ,ビキニ環礁での水爆実験成功.同時に,日本の第五福竜丸被爆,久保山愛吉氏死亡.
こうした中,ソ連は,1954年9月「ヴィシンスキー提案」を行い,原子力の国際管理体制が確立するまで核兵器の禁止を要求しないことを宣言.両者共にここまで開発しておいて今さらなんだが,ここまで,ソ連は1946年提案のグロムイコ案に言うことを建前とし,バルーク案が核兵器廃絶を引き伸ばしていると非難していたわけだ.
尚,1952年10月には英国が原爆の実験に成功している.
一方のアメリカは,1956年,政策の見直しの結果,新たな文言を開発.すなわち,アメリカは侵略に対する原子の盾を持っているのであり,それは平和のための保障だというもの.また,1957年には,キッシンジャーが,その著の中で,核兵器は保有するだけではなく,必要があれば使用できなくてはならないと述べる.ここに至って,核兵器はその保有によってもたらされる効果が期待されるものから,実戦配備されるもの,すなわち兵器へと変貌する.
*実戦配備に伴ういわば周辺機器の開発が完了したということなのだろうか? ここは不明.
とはいえ,実際にはむしろ,アメリカは核兵器の実戦配備に恐怖を抱くことになる.というのも,1957年にソ連がスプートニク人工衛星を打ち上げに成功し(アメリカの人工衛星成功は翌58年),これによって,米国は本土が敵の直接攻撃にさらされる危険性に直面したからである.ミサイルの大量生産はもちろんのこと,核シェルターの建設を呼びかけ,人々は核の飛来を本気で恐怖していたのはつとに知られるところである.勿論アメリカ人が恐怖したものはソビエト人(便宜上こう呼ぶ)の怖かっただろうが,当時の様子を知る由もなく,また,アメリカ人が恐怖したのはそれを知っていたからであり,ひょっとするとソビエト人は恐怖していなかったもしれない.知らなければ...
1955年7月,アインシュタインとラッセルが声明を発表し,世界科学者会議の開催を提唱.→アインシュタイン・ラッセル宣言
尚,アインシュタインはこの声明よりも前,米国が水爆製造計画を発表した際(1950年)に,国家の武装によって安全保障を達し得るという信念は人類を破滅に導く幻想にすぎないと言っている. 1957年7月,カナダ,パグウオッシュにて,第1回パグウオッシュ会議開催.日本からは,湯川秀樹,朝永振一郎,小川岩男博士が出席. →科学者のプロジェクト
また,原子兵器製造への参加を拒否する西独科学者のゲッチンゲン宣言や,1958年の西ドイツの「原爆死反対運動」,ポーリング博士らによる核実験禁止国際条約締結を国連に要請する請願署名運動などが相次いだ.こうした動きは,非核保有国だけではなく,核保有国,例えばイギリスなどでも反核の集会が大規模に行われている(1961年).
原水爆に反対する運動は,被爆国である日本国内だけではなく,上記のような世界の科学者からの訴えもあり,運動そのものとしてはこの時期に確立されていった.しかし,同時に,この時期は,衛星,原子力潜水艦など,軍備力の増大というよりは,これまでとは全く違った軍備の出現が続き,全体としては,恐らく当事者であっても,今やろうとしている「戦争」がどのような戦争なのか皆目見当のつかない状態であったのではないかと考えられる(これは今も大して変わらない.CNNが見せる戦争が戦争であるはずのないことは既に多くの人が指摘しているところ).核兵器の備蓄は,1949年に200発,1961年には米ソ併せて既に2万発を超えている.わずか10年あまりの間に取り返しのつかない程に作ってしまったわけである.
従って,それへ反対というのは,今考えるよりも,遙かに隔靴掻痒の感は大きかったのではないかと思われる.原爆反対が叫ばれるだけでは何の解決にもならぬとは,反核運動を非難する人がよく使う言葉だが,殆ど「増殖」とでも言いたいような事態を前にして,まして今よりも遙かに情報などなかった時代に,反対の声をあげる以外にできることがあったとは私には思えない.「言うだけじゃ」という言葉を発しつつ,反核に対する否定的ニュアンスを未だに有する人というのは,案外,この時期に受けた心理的抑圧から逃れられないのかもしれない.
この間,1960年にアメリカのアイゼンハワー大統領が部分的核実験禁止条約を提案.しかし,この提案が具体化しそうだということなのだろうが,1961年には,米ソ共に,凄まじいことをやっている.ソ連は,60日間に50回の大気圏内核実験,アメリカは半年間に20回の地下核実験を実施.
1960年2月にはフランスが核実験成功.アメリカ,ソ連,イギリスに次ぎ,4番目の核保有国.
1963年3月,部分的核実験停止条約(PTBT)成立.部分的というのは,地下が除かれているから.地下は検証手段がないという理由で除かれている,というのを読むことが多いのだが,ジュネーブ軍縮委員会は全面的な実験禁止を提案していたが,英米ソが部分的条約で調印してしまった,という記述もある.
ということは,地下を残すか残さないかは,検証手段の未開発もさることながら,やるかやらないか,で,やらないと当事者が決めたのであろうと推測できる.
尚,この当時の軍縮交渉は,国連軍縮委員会(18か国,ジュネーブ在)がその場であり,非同盟,中立の立場の国々が当たっていたようだが,上記の歴史を見てもわかる通り,核保有国であるアメリカ,ソ連にすれば,恐らく核兵器の問題が国際問題である認識などなかったであろうと考えられる.自国と,それに敵対する国との戦争である以上,問題が核兵器であれなんであれ,他国から兵器の保有を咎められることなど了解できないかったであろう.ここまで軍備が開発されていても,戦争観は旧式であることがわかる.軍縮会議の存在意義は,案外,戦争観の変更を迫ることかもしれない.
この前後,1962年10月,キューバ危機,65年にはアメリカはベトナムで北爆開始.また,1964年10月には中国が原爆実験成功.軍縮どころではない事態が続く.
この条約が締結されたおかげで,アメリカ,ソ連は当面自分と相手との交渉に専念できるようになる.また,言い方を変えれば,この条約によって,核の独占状態が公認されたとも言えるし,他の出る幕ではないとの宣言とも言えるだろう.
1970年代は,新型,強力な長距離核ミサイルが東西両陣営に「相互確証破壊」を約束させた時代である.信じがたい用語だが,相互確証破壊とは,相互に確実に破壊できるオレたちである,であるから,オレたちは均衡が取れている,抑止しあっているという帰結をもたらすとされる概念である.いうところの,核相互抑止である.
抑止しあっているのだから,均衡が取れないようなことは除かなければならない,何かの手違いで万に一つのことがあってもいけない.互いにやれるだけ拡大した後の,諸々の制限,確認,議定書等々はすべてこうした均衡を得んがためになされたものである.1972年以降のSALT-1(米ソ戦略攻撃兵器制限暫定協定)などがそれである. →条約(国連のHPにある「軍縮関係主要法律文書」から取り出した条約.この時期には非常に多くの条約が締結されている)
ここまでで明らかなように,核不拡散条約は,核兵器用に考え出された条約ではない.核兵器を独占していた東西の陣営,東西の巨大勢力がもてるものすべてで均衡している状態をより純粋にしたいがためにできあがった条約である.
おかしな言い方だが,この緊張に耐えられる国だけが,独占的排他的な条約を支持できるのだ.ふとした拍子の脅しのネタなんかではないのである.さてこの時,軍事的拮抗が核を持つ条件であるとすれば,世界にはもはや拮抗可能な2つの陣営がない以上,もはやどこにも所有の適う国はないと考えられる.
1978年,はじめて,軍縮を専門議題とする国連特別総会が開かれた.国連軍縮特別軍縮総会(United Nations Special Session devoted to Disarmament;SSD1)は,非同盟諸国及びNGOによって強力に要求され,1976年の国連決議の後,準備委員会が設けられ,1978年の第1回開催となった.
この会議では,従来の,政府代表,つまり,governmentalの発言だけではなく,non governmental organizationすなわち,非政府組織代表の発言機会が保障された.日本からも代表団が行っている.
会議で採択された文書では,核戦争の危険の除去と,核軍縮が最優先課題であることが述べられ,これを実現するための国連の組織面での改変として,国連総会第1委員会を安全保障問題専門とすること,ジュネーブ軍縮委員会の代わりの軍縮委員会を設置することを決めた.
その後の20年を見れば,軍縮に関してこの委員会でさえも成果は小さいといわざるを得ないが,この会議によって,軍縮問題が,国連という場を設けることによって,極めて微力ではあったかもしれぬにせよ,アメリカ,ソ連だけのものではないことが確認されたと言える.また,NGOが発言権を持つというのも,国家だけを代表とする国連という場,機能にすれば大きな変化である.
1979年,ソ連アフガニスタン侵攻.1970年代は,軍縮どころか軍拡一本槍で終わり.
しかし,大きく変わった点があるとすれば,上記のように,未だ微々たるものではあったとはいえ,軍備の拡張,核兵器の使用が,二国間あるいは二陣営だけの問題ではないのだとの認識が確立されつつあったことであろう.
こうした流れを後押しするように,1983年には,「核の冬」という言葉が登場する.これはカール・セーガンが言いだしたものである.これによって,核兵器の問題に当事者も非当事者もなく,地球全体の問題として位置づらけられる.後の,環境問題としての核兵器というテーマも,大まかに言えばこの当たりに端を発しているといえるかもしれない(研究者,科学者がとっくの昔にそんなことを言っていたであろうことは想像に難くないのだが).
また,被爆という問題も,爆撃後の被爆だけでなく,実験でいかに多くの人間が被爆しているのかが取りざたされるようになったのもこの時期である.こうした,いわば発掘された事実は,政府機関から流れるはずはなく,非政府組織あるいは市民グループの活動が実りあるものとなっていったことを物語っている.
1982年第2回軍縮特別総会(SSD-2).この総会に向けては,各国で大規模な軍縮,反核,平和集会が催された. と,市民レベルでは軍縮に向けて,対話が開始されているようにみえるわけだが,両陣営首脳にとってはそんなことはどうでもよく,レーガン大統領が,ソ連を「悪の帝国」と呼び(1983年),これを片づけるための政策,「スターウォーズ」計画が正式に採用されている.この計画は宇宙に核迎撃基地を設けるという壮大な計画である.
均衡こそ命という不毛中の不毛が核戦争に対する両陣営の認識であったわけなのだから,そもそも核戦争に勝敗などなかったわけだが,とりあえずようやくそういうことが言える人が表れ,それが紙面を飾る時代がやってきた.
勿論,双方の台所の事情も大きい.ソ連はもはやそんなことをやっている場合ではないほど経済が破綻し,社会も疲弊している.一方アメリカも,軍事費が経済を圧迫していることには変わりはなかった.また,伝えられるところによれば,アメリカは当時,軍事技術がピークに達し殆ど改善の余地がないといった状態であるらしい.やるだけやって,後はどうするかが必要なタイミングであった.勿論,そこから「スターウォーズ」開発に行くこともできたわけだが.
1987年には,中距離核戦力全廃条約(INF条約)が締結される.非常に特殊な,限定的な分野での合意ではあるにせよ,軍拡,均衡から,ようやく転機がもたらされた条約として位置づけられる.
1989年,ベルリンの壁崩壊. この東西対立を象徴する壁が取り払われることを機に,いわゆる冷戦は終結.それを物語るように,1991年,戦略兵器削減条約調印,93年には第二次戦略兵器削減条約,化学兵器の保有・製造・使用の禁止に関する条約が調印される.
文言だけを見れば大したことではないようだが,こうして歴史的に見てみれば,核兵器の問題が,当事者だけの問題ではなく,世界の多くの人にとっての問題となりつつあることを象徴した出来事と言えのではないだろうか.
また,アメリカは,常に常に核を独占し続けた2つの国のうちの1つであり,核兵器の問題については常に大きな責任を負っている国である.にもかかわらず,この国を発信とする核廃絶への取組は,近年ますます大きな勢力になっている.これもまた,この53年間で変わったことの一つである.
とはいえ,1995年には,NPTという冷戦時代の体制維持のための枠組みが無期限延長され,この体制での核兵器廃絶はすでに無理であることが証明されつつある.新たな枠組み,新たな国際社会の枠組みが必要とされるとは,どこでもここでも読むことだが,ここで最も優先的に必要とされている.なぜなら,80年代に人々がようやく気がついたように,核兵器の問題は当事者だけの問題でなどありえないのだから.であれば,特権とはなんであるか,私たちは考え直さなければならない.