「核兵器の威嚇や使用は,一般的に,国際法および人道法の原則に違反する」しかし,同時 に,「国家の存続が危ぶまれるような極端な状況下での自衛のための核兵器使用については,合法とも違法とも結論は下せない」というのがその骨子.
核兵器に関するなんらかの法的な見解を国際司法裁判所より引き出すためのプロジェクト,あ
るいは運動が「世界法廷プロジェクト」,「世界法廷運動」と呼ばれる.
この件に関するテキスト
フル・テキストは,
1.コーネル大学の法律図書館
http://www.law.cornell.edu/icj/icj1/opinion.htm(英語,フランス語)
2.Advisory case: Legality of the Threat or Use of nuclear weapons IALANA(国際反核法律家協会) http://www.ddh.nl/org/ialana/wcpin.html (英語)
国際司法裁判所のホームページは,
http://www.icj-cij.org/icj002.htm(英語)
ですが,ここにはこの件に関してのフルテキストは(今のところ)格納されていない.
国連機関でどこかにはあった記憶がありますが...
日本語で全文訳されたものを探しているのですが,とりあえず見あたらない.
このプロジェクトの経緯は,
http://www.pgs.ca/pages/wcp0.html
ここに,この運動について,歴史,国際法と核兵器などなど多数のリポートなどがあります.(英語).
世界法廷運動日本センターのホームページ
http://www.jccu.coop.or.jp/jccu/n/act.html
に,事の次第と,勧告的意見の骨子があります.
(ただ,ここは,活動の報告−多分会員向けの−という体裁)
この様子を,1997年のはじめだったかにNHKスペシャルが放 映していました.それを,記録しているページを見つけました.この番組を見て,唖然とした方
も多いやに思われます. 個人の方のサイトのようですが,見ていて映像を思い出させられます.おそらくビデオテー
プから起こされたのだと思います.私の記憶より確実に正確なのでリンクさせて頂きます.
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5839/k.html
1995年11月7日 平岡敬広島市長,伊藤一長長崎市長が日本政府代表とともに口頭陳述に立つ.
→平岡敬広島市長の口頭陳述
両市長は,核兵器は明らかに国際法に違反する,を証言.
日本国政府は,両市長の発言は,事実関係以外は日本国政府の見解と異なることを言明.
(ここに至るまでにも,日本国政府は,ICJに,違法ではないとの陳述書を提出しようとして,国民の反発をくらう.)
ちなみに,ICJに意見を明らかにした各国政府のうち,核兵器使用を違法としたのは,
文書意見で25か国(42か国中),口頭陳述で15か国(22か国).
口頭陳述に関する記録は,要旨のみ,IALANAにあります.
日本に関していえば,両市長が何を言ったかは,それぞれ市のホームページ等で公開されています.
IALANAの要旨にある文章から,何を陳述したのか順番通りに示すと以下のようなことになります.
(広島,長崎市長が,核兵器のもたらした災禍を述べる.)
外務省河村武和審議官は,人類の死傷,破壊を引き起こす核兵器の巨大な力の故に,核兵器の使用は,国際法に哲学的基礎を与える人道主義の精神に,明らかに反していると論じた.
広島,長崎市長は,さらに,核兵器の使用は国際法に違反すると論じた.広島市長は,核兵器の開発,所有,実験でさえも違反であると論じた.
しかしながら,河村氏は,法廷に対して,両市長は日本人の部分を代表しているが,彼らの意見は必ずしも日本政府の見解を表すものではないことを明らかにした.
長い長いテキストの最後だけを記すと,以下のようになります.これが普通「勧告的意見の要 旨」として伝われている模様.裁判官は14人.裁判官の構成と各々の判断については下記の通 り.
そのまえに,勧告的意見とは,国家間の争訟を裁くことと共に国際司法裁判所の2つの機能であり,勧告的意見というのが,判断がつきかねた結果そうなったというものではないことを蛇足ながら付け加えます.なお,この意見には法的拘束力はありませんが,いわゆる権威ある司法機関の見解なわけですから,それ相応に重要な意味はありましょう.ただし,こうした意見を要請できるのは,私人ではなく,諸々の国際機関での手続きと同じように,国連の機関か国家のみ. 従って,審理を国際司法裁判所に要請するかしないかを各国間で調整が必要であった.当然のことながら,核保有国はこれに反対した.
****勧告的意見
(1) 勧告的意見の要請に応じるかの決定.
(賛成13・反対1)
(2) A:核兵器の威嚇や使用を具体的に認めた国際慣習法や国際条約はない.
(裁判官全員一致)
(2) B:核兵器の威嚇や使用を包括的・普遍的に禁じた国際慣習法や国際条約はない.
(賛成11・反対3)
(2) C:加盟国の武力による威嚇または武力の行使について規定した国連憲章第2条第4項に
反しかつ国家の個別的または集団的自衛権について定めた同51条が求めるすべての事項を満たさ
ないような,核兵器による威嚇または武力の行使は違法である.
(全員一致)
(2) D:核兵器の威嚇または使用は,核兵器を明示的に扱った条約その他の約束における特定
の義務に加え,武力紛争に適用される国際法の要求,殊に国際人道法の原則と規定に従ったもの
でなければならない.
(全員一致)
(2) E:上述された要求から,核兵器による威嚇または使用が,一般的に,武力紛争に適用さ
れる国際法の諸規定,殊に国際人道法の原理と規定に違反することが導かれる.しかしながら,
国際法の現状およびこの法廷が把握できる事実の諸要素に照らし,核兵器の威嚇または使用が,
国家の自己防衛の極限状況での合法か違法かについて確定的に結論を出すことはできない.
(賛成7・反対7,裁判長の賛成により決定)
(2) F:厳格かつ効果的な国際管理の下でのあらゆる分野にわたる核軍縮につながる交渉を,誠実に遂行し,完了させる義務が存在する.
(全員一致)
****
How A Citizen Network Can Influence The United Nations (一人の市民がどうやったら国連に影響を及ぼせるのか)
WCP(国際法廷プロジェクト)の歴史は,上記のタイトルが示すように,一人の市民がどうやったら,といった牧歌的な側面も確かにありますが,反核に関してのベテランたちがフルパワーで集結した大がかりな企てには違いなく,そういう意味では,こういう牧歌的なタイトルがふさわしいのかどうかは疑問が残ります.そうはいっても,どっかの大統領が仕掛けているわけではないから,やっぱり一市民には違いないのだけれども...
筆者は,ケイト・デュイスとロバート・グリーン.このデュイスというニュージーランドの女性が,このプロジェクトの発案者.彼女の発案に,反核国際法律家協会(IALANA),国際平和ビューロー(IPB),核戦争防止国際医師会議(IPPNW)を初めとする既成の団体,法律家,学者,活動家が加わりプロジェクトの形が整えられてゆく.
この間に,後にこの運動の一つの特長である考え方:普通の市民が個々に,公式の良心を宣言する,が具体化される.彼らによれば,この署名は,請願,何かを請うものではなく,国際法によって意味づけられているものである.その根拠を,ハーグ条約(1907年)が,公的良心は新規制度を設ける際に考慮に入れられるべきであると言っていることとしている.
国際法廷プロジェクトは,正式には,1992年ジュネーブで立ち上げられた.団体というよりも,核兵器についての法的見解を得ようという企てのために作られた緩やかなネットワーク.
賛同を表明していた日本の活動グループが正確にはどのぐらいあったのかわかりませんが,例えば以下のようなところがありました.
日本原水爆被害者団体協議会
世界法廷運動日本センター
核兵器廃絶をめざす関東法律家協会
日本国際法律家協会
このプロジェクトに関わった団体は,当然のことながら,1996年の勧告的意見で終わったわけではなく,まだ引き続き活動している.国際刑事裁判所設立に関っている(1998年7月,設立のための条約は採択された)し,廃棄2000のプロジェクト等にも,ほぼ同じ顔ぶれが見える.
WPCの英国のグループは,ニュースレターを発行しています.夏版の内容は国際刑事裁判所設置のための活動についてのリポートでした.
http://www.oneworld.org/world_court/worldcourt2_project.html
判断というよりは,新たな法を作るための合意形成として,非常な意味がある.あの場で一足飛びに違法だと宣言されることを期待した人々はがっかりしたでしょうが,この合意形成の後に,核兵器を取り締まる法体制を作ろうとしている人がいるのなら,これは大成功だったと言えるのではないかと考えられます.実際,このプロジェクトを立ち上げた人々は,全面的にとはいかなくても成功したとの認識を持ち,日本のマスコミは最初は,失意,後に,やや成功といった取り扱いになっていった.
失意には2通りあって,1つは,核兵器が違法であるとの明確な判断がなかったことそのものについて,もう1つは,日本国政府が,核兵器が違法だと言えないことがはっきりしたこと.それぞれは別の問題として取り扱う必要があったし,今もあると思われますが,当時の報道では,一緒くたにされ,失意といったトーンだけが醸成されていた.
違法性については,核兵器そのものを禁止した法がない以上,明確な違法という判断を勝ち取ることは,勧告文の最初の判断がいうように難しい.また,これを大量虐殺を禁止した法律を適用させて,というのには,もう一仕事ある,といったところなのじゃないのだろうかと私は考えています.
というのは,個別の事案によらない限り,核兵器は大量虐殺を必ず伴う兵器だ,は証明されないのではないかと思えるから.この裁判でいう核兵器は,核兵器一般なわけで,それは個別の事情としての広島,長崎に落とされたものではない.だから,広島,長崎市長の証言は,核兵器は大量虐殺を必ず伴う兵器である,を立証するための個別の事情の証言者なのだろうと思う.
個別の事案として,つまり,広島,長崎に落とされた原爆をどう解釈するか,ということでなら,大量虐殺を禁じた国際法に違反していると明確に言えるだろう.しかし,裁かれているのは,核兵器一般の使用なのだから,これを禁じるためには,これは必ず大量虐殺を伴うものであるとの合意が必要になる.
核兵器の場合,他のどんなものを喩えに使っても間尺にあわないのを承知で書きますが,Aを打った銃は凶器として取り扱われますが,無関係にそこらにある銃を同じものとは取り扱えないという理由で,核兵器一般を違法であると断言するのは難しいだろう.
そんなことは,この裁判を仕掛けた人々は,百も承知だと私は思う.というより,このプロジェクトの目的はそもそも核兵器の廃絶であって,日本に落とされた原爆の不当性ではない.そこで,この裁判の持つ意味は,今ここで違法性を得ることにあるのではなく,むしろ,
1)核兵器が大量虐殺を伴うのだということは誰でもそう理解していることである;
2)しかし,現在これを違法だと宣することができない;
3)ではどうやったらこれを違法だと宣言できるのか;
4)核兵器の威嚇または使用を禁ずる法律を作ればよい.
といった取組への1段階なのではなかろうかと私は考えています.
実際,この裁判の途上で,1)は多くの人々にとっての基本認識になったのようにみえる.別の言い方でいえば,一般論として,つまり,使用されていない核兵器という存在を裁くには,現行無理があるし,裁いたところでそれが核の使用を禁ずることに繋がる保証はない(自衛権という回避手段を使われれば何もかもが水の泡になる). しかし,こうして世論を固めつついけば,核兵器の使用を禁ずる法律というのが,机上の空論ではなくなる(一昔前,これは机上の空論としてしか扱われなかったのではないか?). また,「私たち」という一般市民が,良心に鑑み,核兵器の存続を良しとは判断していないと宣言する,という仕組みができたことも,核兵器の使用を禁止する法体制作りには役に立つ.
こうした試みが作為的であったかどうかはともかく,核兵器の使用を禁ずることがまず何よりも早く核兵器のもたらした脅威を取り除くことに繋がるのだから,このように了解することは無意味なことではないと私は思う.少なくとも,なぜ違法と言ってくれなかったのだ,と悔しがっているよりは核廃絶にとって効果的だと思う.
目次に戻る