1949/4
Hiroshima は,ペーパーバックで,1989年に復刻されている.
1950
Jikken Toshi は実験都市か.最初日本語で上記雑誌に載り(ということはL'espoirは日本語の雑誌なのか?),その後,Robert
J. Liftonが英訳.現在はNew York City Public Libraryにあるらしい.
1955/10
1958
長崎の永井博士
1964
これは日本語版刊行の年次.英語版は?
1965
大江健三郎:「何を記憶し,記憶しつづけるべきか?」
1947年に,広島市が市民からの原爆の体験談を募集したところ,164編が集まった.それを1950年5月,被爆5周年を期に,18編とぬきがき16項,130ページにして小冊子にした.しかし占領軍政策により世に出すことができずに長く埋もれていたもの.世の中にこんなに気の重くなる本があるとは知らなかった.
**この体験記録は,現在『中国新聞』のオンライン上で読める.しかし大江の文章は付記されていない.なぜこれらの文章が,今この時まで埋もれていなければならなかったのだ,という慚愧に耐えぬという心情の吐露された大江の文章は,核兵器がただに驚異的なモノであるだけではなく,人をこのように殺すものなのだと心しておくためにも是非必要なことだと思われるのだが.
http://www.hiroshima-cdas.or.jp/chugoku-np/98abom/index.html
1965/6
小説
1966
ABCCが治療せず,観察,検査をし,あたかも実験室の動物のように被爆者を扱った,それへの怒りを綴ったもの.
*アメリカ人の書いた論文の中でみつけたものなので,ちょっと詳細はこれ以上わからないが,日本語版があったのだろうか? 日本の本の検索では今のところ無理.
1968
調査自体が行われたのは,1962年の広島.被爆直後の人々の心理の分析.サイキック・ナム,サイキック・クロージング・オフ等の言葉を使って,彼らの心理的な休止,停止状態を言い当てた.
何をいったところで,「研究の対象」として被爆者を扱っているわけだから,それ相応の批判もあり,今でも好ましく思っていない人も多いらしい.また,実際何か衝突あるいは不愉快事でもあったのだろうかと思わせる文章もある.
大江健三郎はこの博士の仕事にしばしば言及する.確かに,こうした分析を通さなければ,一体それがどのような体験だったのかを他者に知らせることはできなかっただろうと...今ならそう思える.ただ,1962年の日本,あるいは広島がどのような状態で,そこにアメリカ人がどのようにしてやって来たのか.それはそれで知るのが怖い.
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