この号における原爆は,広島・長崎で多くの人命を奪った何者かである前に,新しき時代を開いた何者かでもある.原爆がいかに開発されたかを,ご丁寧にニュートンから始まる科学者の写真を掲載しつつ説明している.メインの論説は既にして今に至るまで解決できない問題を縷々述べている.核兵器の問題は最初から最後まで同じことを言っているだけなのかもしれない.「今日私たちを恐れさすことは,原爆ではなく,人間のあり方だ」(B・ラッセル)といった言葉が既にこの時点で引用されている.
今日私たちを恐れさすことは,原爆ではなく,人間の性質だ.物事の不可思議を前に,良心あるいは謙虚さを失わずにいられるか.原子科学はこの不思議を説明する.科学の独自の法則が私たちを究極の無知へと運命づける.しかしこれはまた不確実な宇宙にあっての永遠の選択の自由へと結びついている.(...)私たちは戦争を止めることも,人間に対する人間の非人間的行為を軽減することもできる.しかし,すべては何かしらの行動を取る.私たちは未知の新しき土地にいる.
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その後のアメリカの歴史を見れば,大いに皮肉な気持ちになるのだが,少なくともあの時点,あの8月にすでに,自分たちが手にしてしまった手に余るものについて,分析し,先の見通しをたて,まだやれる,と踏ん張っている人がここにいたことだけは確かだ.
核兵器とは直接には関係がないのだが,ついでを言えば,この論説の中には,日本のクリスチャン,カガワ(賀川豊彦のことか?)の言をひきながら,自分たち,即ち米軍の爆撃が,夜間から戦略,戦略から絨毯,地域から無差別へと発展してしまったことについて苦々しさを隠さないくだりがある.この発展が広島へと直接的に結びついていると.
結局のところ,私たちは,この時点から,つまりは原爆がこの世に生まれ,武器として使用されたこの時から,まだそう遠くへは来ていないのだ.ラッセルのいう2つのモラル,支配者のモラルと個人のモラルの狭間で,ただ手をこまねいているだけなのか? 目の前に,理論だけではなく,モノとして存在させてしまったモノのあまりの巨大さに,ただ無知を決め込んでいるだけなのじゃないのか? とはいえ,私たちには手がある.私たちが自分を,機械の一片として片づけてしまわぬ限り,仕方がないと無知を決め込んでしまわぬ限り,私たちにはまだ手がある.
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さらにさらに直接的にこの号とは関係がないのだけれど,私はこの号を,留学しようとやってきたアメリカ,ニューヨークの街中,道路端で,「あなたの誕生日には何があった?」などといった看板のもとに大量の古本を売っていた,そういう言い方もなんだが怪しげな風体のおじさんから買った.
そうして,この国は,あの戦争の時代との断絶のない国なのだとしみじみ思った.なぜなら,自分が手にしているそれが,すべての意味で,あまりにも「現代」を語っていたから.それは,紙であり,印刷であり,ポマード,靴下,煙草といった広告であるとともに,戦争と原爆を巡る考察である.
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