イラクの問題が浮上するたび,問題の核心にあるだろうイスラエルに言及する
ことなく,フセインならず者論だけが横行する,その仕組みに唖然とさせられ
る.アメリカのマスコミがただ言っているだけではなく,実にまったく恐ろし
いほどに,いわゆる普通のアメリカ人が本当にそう言う.昨日も友人がそう
言っていた.ボクは核兵器がいいと思ったことはただの一度もないよ,だけ
ど,世の中にはわけのわからない人や国があるから...
いる「から」なんなんだ,と当然私は反論できるのだが,私はここしばらくそ
れをしないことにしている.アメリカしかいないのだ,と彼らが考えるのな
ら,では,最後まで責任を持って,核を使わせないよう他国を牽制してもらっ
てもいいかもしれないなど考えているから.勿論,自分も持たずにだ.自分が
持てば,世界で唯一核兵器を使ったことのある国は,他のどこよりも使う可能
性がある国なのだから.
世界で唯一実戦で核兵器を使ったことのある国だから,最も使い易い国であ
る,というのは,しかし実際には,逆かもしれない.なぜなら,核兵器を使う
ことの道徳的,心理的な抵抗を持つのも唯一ここかもしれないと思えるから.
頭のいい人々というのか,世界は何があっても利害で動く,そこにあるのは感
情的,場当たり的なものなのではなく,必然性なのだと考える向きには,道徳
的,などと言う言葉はちゃんちゃらおかしくて聞いていられない言葉だろう.
しかし,道徳的というのを,例えば,抗うことのできない,抗うことに抵抗の
ある規律と考えれば,道徳も必然性に関与しているし,むしろ,これが事態を
推進させているかもしれない.なかなか道徳的という言葉を笑わずに受け止め
られないのは,道徳的であることを善と同義であり,かつ,無条件に普遍的で
あると考えているからだ.
道徳的であることと善であることは,ある道徳の範囲内にある人にとってしか
有効ではない.対象が限定されるということは時間的な制約をも受ける.例え
ば,目上に従うことはよいことだ,をすべての人間が同じ時に了承できるわけ
ではないが,ある領域内である時間内では善であり正当である.
一度に大量に人を抹殺することも,同じようにこうした道徳の中に,つまりは
認められたこと,の中に入っている.ミサイルでの空爆は,どんな詭弁を使お
うとも,上空から降ってくる何かによって大量の人が死ぬ可能性が大きい.誰
も戦ってなどない.戦争あるいはwarという古くからある文言がこれを隠して
いるかもしれない.しかしミサイル攻撃は一般にそう大した問題を引き起こし
てはないようだ.
核兵器は,いうまでもなく,一時に大量の人を殺す.
しかし上記のように私たちが,一度に大量に戦いでもなく殺すことに対する抵
抗感がなければ,であれば,これを了承できないとは言えない,少なくとも言
い切れないところに私たちはある.
核兵器は,普通の爆撃と違う,なぜなら後代にまでも甚大な影響を及ぼすのだ
から,という言説は,巧妙に,一度に大量の人を殺すことの是非をかいくぐろ
うとしている.勿論,その影響が甚大だということを否定しているのではない
が,空爆という事態,あるいは異常な破壊力を持った何物かという時点での是
非を飛ばしている.
何がそれを阻むのだろうか? それは実に言い古されたことだが,その爆弾の
下にある人かも知れないと思えないという,ただそれだけなんだろうと思う.
アメリカ人の多くが,なかなか空爆という事態が想像できないのは故のないこ
とではない.いうまでもなく,アメリカ本土というのは常に安全だ.ソ連から
のミサイルが飛んでくるかもしれぬという予測だけであれだけ馬鹿げた大量の
核兵器を拵えた過剰な反応というのは,空から降ってくるものに対する心理的
な予測がいかに出来ないかの証左であるようにも見える.
とにもかくにも,アメリカは二度核兵器を使用したことがあり,ミサイルによ
る爆撃を止める気配など毛頭ない.これではまるで,オレたちは爆弾の下にあ
るモノなんか知ったこっちゃない,と宣言し続けているようなものだ.
にもかかわらず,核兵器は1945年以来使われてはいないのである.
日本人としては,こんなところに道徳などという言葉を使いたくない気持ちは
山々なのだが,それでも,私はここに少なくとも心理的な抑制が働いていると
みなす.「あれ」は,ダメなのだ,と.
それを,空爆体験のないアメリカに知らしめたのは,想像力の欠如していな
かったアメリカ人が存在したことと,勿論被爆した人々の力によってである.
伝えていなかったら,それは伝わってはいない.
これまでの日本発核兵器反対が,もしいくらかでも何かを達成しているとする
のなら,そこに,その爆弾の下に,人がいたということを知っているか,と
いったことを伝えたことだろう.逆に言えば,核兵器を保存したい人々にとっ
て一番やっかいなのは,普通の人が,あの下にはオレがいるのか,に気づいて
しまうことである.ならず者説は,あの下には,オレはいないことを大急ぎで
知らせようとしている説である.誰しもオレはならず者なのではないと勝手に
考えているのだから.いや,あるいは,オレがならず者だから,相手もそう
だ,なのかもしれないが...
核兵器の問題は,大量虐殺をダメだと言えるのかどうかの試金石だ.
このフレーズはしかし,世界の法と秩序は何であるかが定義されていて,さら
にそれを私は是としているという前提がなければならない.アメリカはいうま
でもなく,オレの考える法と秩序が世界の法と秩序であり,言うまでもなくオ
レはそれを是とする.だから,どこまで行っても,その目的のために戦おうと
する.彼らにとってはそれは一種の聖戦だ.この正義に刃向かう者はならず者
である.
さて,で,日本でアメリカの軍事行動を支持する人たちは,どんな正義を考え
ているのだろうか.私があちこちのホームページをめくってみていて,たいて
い出くわすのは,世界の安定のためには,とそれを目的にすることはあれ,そ
れがどんなものなのかまではつまびらかではない.
彼らはだいたい基地撤去を言う人々を非難する人々と重なるように見える.米
軍基地を沖縄から撤去しようという意図のもとに,米紙に意見広告を出そうと
いうプロジェクトが大分の市民グループを中心に行われている.一回目は昨年
(1997年)の5月だったかに行われていた.反響は勿論様々.しかし米国か
ら反対,賛成を含めて80通あまりの手紙が届き,それらに対して返事を出し
た由.様々な手紙が掲載されていたが,米国民とすれば,なぜ私たちにそんな
ことを直接言うのだという不快感も先に立つであろうに,基地があるというこ
との本質的な不安感を理解している人も,それからまた,米国が他国でそのよ
うな振る舞いを結果的に許していることへの怒りを表す人いる.個人的には,
予想外に好意的な反響ではないかと思った.
http://www.coara.or.jp/~yufukiri/(Goodby Marine Project)
むしろ,米国内にいた日本人の反応の方が辛辣で,「そんなの日本の問題だ
よ」と一笑に伏していた人もいた.確かにそうだし,出ていってくれと政府が
言えずに,出ていって下さいと相手に言いに来るというのは,なんだか非常に
情けない図に見えたことも確かだ.
翻ってこれが日本の国内での意見広告になった場合,一体どうなるのだろう
か? 基地のある本質的な不安感よりも,主権国家同士の付き合い方よりも先
に,全体としての安定を論じ,そこから帰結すれば,基地やむなしといった意
見が非常に大きな割合を占めるのではあるまいと思えてならない.これは私の
勝手な推測である.しかし,根拠なしとはしない.
それは,私たちはあまりにも,全体から個へと考えることに慣れすぎているの
ではないかと考えるからである.一例を挙げれば,殆ど無意識に使っている,
「わがまま」という言葉.わがままとはなんであろうか.「わがまま」とは,
全体としての善が決定されていなければ決して帰結されない言葉だ.全体とし
て善きことはこれである.そこでそれをやらないというあなたは自分の意を通
そうとして全体のためによからぬことをしているということ以外に意味はな
い.
それはあなたの「わがまま」だ,とよく簡単に言ってのける人がいる.本人が
そういうのならまだいい.しかし他人がそれを言うのであれば,なぜそれを
「わがまま」と判じるのかを説明しなければならない.しかし,それが説明を
要することでることすら気づいていない人があまりにも多い.「わがまま」だ
から「わがまま」だと言っているんだ,ですませてしまう人は実に多い.
ところで一方,主権,主体とは,究極の「わがまま」かもしれない.公の存在
であるのは,その枠内にいるものにとってであり,他から見れば,それは一個
の分かつことのできない何かである.この何かがそこで生きようとするもしな
いも他の決することではない.その生きようとするものを,普通は主体と呼ぶ
のではないのか.
福沢諭吉は,『痩せ我慢の説』という書物の中で,「立国は私である,公では
ない」と言っているのだそうだが,私もこれに同意する.主体とは,相手か
ら,周りから,存在するようにし向けられて存在しているものではないのだ.
私はこのようにあります,と表明することによってそれは主体と呼ばれるのだ
ろうし,また他がそれを認めないというのなら己のよって立つところを表明し
続ける必要があるだろうし,滅ぼそうとするのなら,戦うこともあるだろう.
しかしそこにあるのは,公などではない.
おそらく,主権国家と呼ばれるところに住まいする多くの人は,とっくの昔に
これを知っているのではないのだろうか.そうして,むしろ,その主権をどう
制限するか,しかも武力闘争せずに,という時代に来ているのではないかとみ
える.国連がうまく機能しないのは,各国の主権とどう折り合いをつけたもの
かが未だにわからない,つまり全体としてのプランなどを争っているのではな
く,それを個々の主権国家が納得するためにどうしたらいいのかで折り合いが
つかないからだ.どこまでその全体,つまり国連に預けてよいのかを判断でき
ないからこそ会議をしているとも言えるだろう.同じように,国連という全体
を代表する機関に加盟国全てが,全ての案件に対して白紙委任するというのな
ら話は早いのだ.しかしそんなわけにはいかない.
だから,全体としてのプランは常に妥協の産物になる他はない.もしこの妥協
がイヤであれば,米国のように武力を最大限に利用することを考えるか,あと
は,全体としてのプランを是認できない方が悪いのだと...ただポツネンと
見ている他はない.しかし現実は妥協案の方なのだ.
ふと考えてみれば,日本人の奇妙な程の国連好き,と言って悪ければ国連に預
けたがる傾向は,全体としての枠組みがないと安心できないことに由来するの
ではないかと考えることもできる.預けたくて仕方がないのか?
基地問題に戻っていうなら,基地存続賛成に対して本当にそれでいいと考えて
いるいる人,あるいは理由のある人はどれだけいるのだろうか.あるいはま
た,その中で,米国の望む正義を正義と認めると白紙委任をしている人はどれ
だけいるのだろうか.私には,「わがまま」だと言われるのを恐れて,イヤだ
と言えない人が,何も言わぬままに意に染まぬままの行動を取るのと似ている
状況にみえる.そうした回避行動を取る人が,そのままで我慢できるのならそ
れもいい.しかし多くは,どこかで暴走したり,現実を見失うのがオチなので
はないのだろうか.
こうしたなりゆきを見るにつけ,世論というのはあまりにもお人良しがすぎる
と思わずにはいられない.武力行使を決めたわけではないと,あたかも話し合
いを続けているかのようなことを言い,それを新聞等は書くわけだが,もう
とっくの昔に,兵器は現地に向かっている.これを,威嚇とはいわないのだろ
うか.話し合いをと言いながら,傍らのテーブルに銃を積み重ね,その一つ一
つに弾を込めているという図は,なんと呼ぶべきなのだろうか.
しかも,それが双方にとって中立の場ではなく,方や縁もゆかりもないところ
からの出張舞台,つまりそこにいるのは,死ぬかもしれず傷つくかもしれぬこ
とを覚悟した,いわゆる武人だけである.他方,そこは地元.つまりそこにい
るのは,なにがどうなっているのかもわからない多数の武人以外の,普通の人
がいる.ニューヨークかサンフランシスコの沖合に戦艦が大挙して停泊してい
る交渉というのを考えてみれば,アメリカがやっていることのいやらしさがわ
かってくる.
そこに普通の人がいるかもしれない可能性を思いうかばせないか,あるいは考
えても,しかしそれ以上に恐怖があるのだからと都合のいい錯覚をさせるため
の,くだらないが効果的な手段が,いわゆる「ならず者」の説である.
私は,今年の2月,アメリカの大学で教える教員が,教室で生徒を前に,真珠
湾を引き合いに出して,だから我々はフセインのような「ならず者」に対して
いる必要,武力が必要なのだと言っているのを目撃した.この頃ちょうど,オ
ルブライト国務長官が,フセインはヒットラーのようだから我々は戦う必要が
あるのだと言ってオハイオの大学で失笑を買っていた.
その教員曰く,我々は,中立していたかった,他国の争いに加わりたくはな
かった.しかしその結果何が起こったと思うか.真珠湾だ.我々は,戦争に巻
き込まれたのだ.戦うしかなかったのだと.
アメリカが決して中立的であろうとしていたわけではないことは,多くの歴史
家の指摘するところであるが,多くのアメリカ人にとっては,あの戦争は,
「巻き込まれた」ものである.巻き込まれたという言葉を人々はよく使う.
http://www.worldmedia.com/archive/
Rogue States: Noam Chomsky
真珠湾は,その前後のアメリカの行動はともかくとしても,アメリカ本土と比
べれば出張陣地のようなところではあるとはいえ,日本軍は確かに領土を攻撃
した.湾岸戦争は,同じようにその前があるにせよ,イラクがクェートを侵攻
するという事実があった.しかし,現在の,いや,クェート侵攻当時であって
も,イラクが,アメリカにとって際だって危険であるようなことをしたのだろ
うか?具体的に言って,イラクはどこを攻撃する予定なのだろうか.イラクの
持っている危険は何なのだろうか.
世界のために,世界の安全保障のために戦っているのだと言うのがこの件に関
してのアメリカの決まった見解である.中東地区の全幅の支持が得られない以
上,あの地域の安定のためにだけでは理由付けは不十分である.これだけ話が
大きくなれば,もはやイスラエル一国擁護のためでも話は通りにくい.従っ
て,見解はますます漠としてくる以外にはない.世界の法と秩序のために,危
険を回避するのがアメリカの役目になる以外にはないのだ.
大統領が米議会下院議長にあてた報告書(11/6付)には,国連決議を無条件
で受け入れないイラクを非難し,制裁解除の条件も決議1194を無条件で受け
入れることであり,常任理事国5か国も揃って,こうしたイラクの態度はとう
てい受け入れられないと言い(9/23),さらにはイラクが平和的で国際的な
法と人権を遵守する国家を建設するために自分たちがやっていること,皮肉な
見方をすれば別の政権作りへの支援などを示す(イラクはアメリカではないの
だが).
その上で,サダムの好戦的な行為が自分たちを脅しているが,アメリカはそれ
に応じる十分な用意があると続く.しかし,何が自分たちを脅しているかは明
らかではない.強いていうのなら,化学兵器,生物兵器,長距離ミサイル,核
をイラクが持っていることである.しかしこれらはいうまでもなく,アメリカ
を含む多くの国が持っている.
核,生物,化学兵器の保有が是認されるわけではないが,これらを持つこと
と,使用することは別の問題である.使用するには,相手があるはずである.
当てのない世界を相手に,世界制覇を唱えるオームとは違って,フセインは
もっと実質的にきちんと計算しているようにも見えるのだが.彼らがそんなに
無謀であれば,商売熱心なロシアやフランスが,制裁解除を見込んで,武器商
人フェアではなく,国際貿易フェアなどしたりはしないだろう.貿易フェアは
30か国から800を超える企業が出展している.
確実に止めつことはできないにせよ,なんらかのアクションがあれば,なにか
しら,そのシナリオに対してのダメージを起こし得る国がある.それが日本で
ある.
アメリカや,元を正せばユダヤ人問題を挟んで,本質的にはヨーロッパの問題
である中東問題に対して,日本人の一般的な感想は,非常に遠いところの出来
事であろう.
確かに,遠い.しかし,おかしなことだが,アメリカほど遠いわけではないの
だ.なにしろアメリカが頼みにする基地がここにあるのだから.にもかかわら
ず,遠いアメリカから,すべての兵器とすべての兵員が移送されているわけで
はないというごく基本的なことさえ知らない日本人が多すぎる.日本の安全の
ために,用事のないときには番犬のようにおとなしくそこにいるのが在日米軍
であるとでも思っているのだろうか.さらにいえば,新聞,テレビ等のメディ
アは米軍の動きを追わない.
アメリカの新聞が,日本から出た強襲揚陸艦が湾岸に向かうと書かないのは
(経由地として時々書いていることもある),基本的にアメリカが主体となっ
て執り行っている戦争であり,基地は一面ではアメリカの領土であるから,そ
こをどう使おうとアメリカの勝手,いちいち言及する必要はないとも言える.
しかし,その土地を貸し,わざわざ滞在しやすいように創意工夫をこらしてい
るのは日本なのである.この状態を解釈するのは難しい.
以前には,その軍事行動の目的は,侵略か,自己防衛かの2つのうちのどちら
かであった.しかし,今は,安全保障のためという目的が加わっている.これ
は目的の分類上は,自己防衛の一つと解釈されているのだろうが,自国にとっ
て危機的な状況が存在していない以上,これを自己防衛と解釈するのはあまり
にも拡大しすぎであろうと思われる.であれば,3つめの分類と考えてもいい
のかもしれない.そうであるのなら,では,この3つめの目的にとっての軍事
行動の是非は,未決である.国連が究極的には軍事力を想定してこなかったの
は,この未決のためであろうと考えられる.安全保障とは,誰にとっての保障
なのかを全体として考えられるほどに,私たちの誰も,世界を知らない.
目の前でなくても,仮に地理的に遠く,歴史的に遠い国の出来事であっても,
リアルタイムで情報が行き交う現在,どこかで起きた事件はすべて,知らない
ではすまされない事態に私たちは巻き込まれている.例えば,見知らぬ土地の
顔も想像できない地域で大量虐殺が目前に迫っていると知れば,それを察知し
たものは他に知らせ,それを未然に防ぐことを,法的にではなく道義的に義務
づけられていると解釈することは可能であろう.アメリカが言う世界の安全保
障は良心的に言えばこの線に沿ったものだ.これは喜ばしい.インターネット
の発達は安全保障のためには非常に有意義な道具であろう.また,未然に防ぐ
ための最終的な手段として軍備力が本当に必要なのであれば,それ相応に持つ
ことは妥当な選択でもあるだろう(しかしむしろ軍事力という戦いに重点が置
かれたものというより,対物的な破壊工作の手段や,緊急避難のための輸送手
段の充実である方がふさわしい時代に入っているようにはみえるが).
しかし,今,何が起こっているのだろう? とりわけアメリカに.とりわけ日
本に.そうて,大量破壊兵器によって,誰が殺されようとしているのだろう
か.
何も起こっていない危機を回避するために人を殺しにでかけることが安全保障
と呼ばれることに,日本は,賭けている.
先週,Mr. President, クリントンがテレビに出演してなにやら話をした時,
紙も見ずにあれだけ話せるというのが凄いといった感想をもらした人がいたの
だそうだ.クリントンの話がどれだけ実があったかということは又別のことと
しても,確かに日本の政治家が,ほとんどお話にならないのはどうしたものか
.
しゃべれらないのが政治家だけではない.今日あたりの新聞によれば,中国の
要人に日本の要人が会ってもらえないという事態が続いているのだそうだ.そ
の理由が,日本人と会っても話が儀礼的でつまらないというものらしい.そん
なバカな!と誰もいえないのが,さらにどうしたものか,である.
そうした中,広島の平岡市長が今期を限りに引退することが確定しているとい
うニュースがあった.広島の市政の評判がどうだったのかはまったく知らない
のだが,核兵器廃絶への取組といった問題においては,ここから話せる人がい
なくなってしまうのかといった感想を私は持った.
話といったって,市長の肉声を聞いたことは,テレビのコメントと,平和宣言
のビデオといった機会以外にはないし,だいたい会ったことのない人だから,
どうやって話しているのかなど,それはよくはわからない.だから,話の出来
る人という言葉は表現上誤りかもしれない.
しかし,あえて私は,彼は話の出来る人であったと言いたい.それは,書かれ
たものを作る人ではなくて,話をする人であったという意味である.この時書
面は,話したことの記録である.いかに体裁が整えられていようと,話された
もの,語りかけたものとそうでないものに差はある.その差は,対話者の有無
ではないかと私は考えている.
書かれたものには,対話者はいらない.いかに対話者あるいは読者が想定され
ていようとも,それらはすべて作者の頭の中である.書かれたものは,一つの
世界である.そこには,対話者はいない.
一方,対話には文字通り相手がいる.相手がどう出てくるのかがわからない.
だから周到な理解のための手順や,思考の枠組み作りも必要になる.それは対
話の前である.それがあってはじめて対話に臨むことができる.
とはいえ,市長の文章にしたところで,対話集でもなければ,講演記録でもな
いのだから,それなら書かれたものの範疇ではないかとも考えられる.平和祈
念式典にしても,国際司法裁判所での証言にしても,ダレソレという名のある
個人に向けられた話ではない.しかし,そこには対話者はいる.
それは,私であり,あなたであり,Aさん,Bさんという個人であるのだろう
と思う.これら個々人に向かって,聞いてほしいし,理解してほしいし,何か
を言ってほしいと,作者はそう語っているのだなと,私は平岡さんという人の
文章を読むたびそんなことをしばしば考えた.
この時文章は,それら何かを喚起させるための土台である.それは決定稿,こ
れを承諾せよという代物ではない.書かれたものに対しては,受け手は承諾す
る以外には手はない.もとより対話者はないのだから.
勿論,市長の場合には,この件に関して,もともと対話者としての資格があっ
た.つまり,市長として,広島市あるいは日本国を総括して(日本国政府がい
かに,彼の陳述は広島という日本の一部の意見であると言ったとしても)核兵
器廃絶を訴えるという立場がある一方,被爆者に縁の深い人としての事情があ
った.
しかし,だから,真実味だの,訴える力があるのね,などと考えるのはあまり
にも浅薄である.往々にして,体験者はそれを相手に伝えられない.それは,
自分の感じたことを伝えるに急であるあまりに,相手がどう理解できるかを忘
れてしまうからである.だからこそ,それを整理して伝えられる伝達者の存在
が必要になるわけだが,そこには才と誠実さがいる.
こういう人がまた一人いなくなってしまうのかとそれが残念でならない.
とはいえ,市長は市政を担うわけだから,やっぱりこれは,別組織としてやっ
てみるっていうのもいいんじゃないかという気もしないでもない.市長さんに
,こうまで世界中に知れ渡ったヒロシマの任まで負わせるというのは,大変な
んじゃないのだろうか.広島はそうでなくても,カープは追わないとなんない
は,サンフもいるは,低空飛行のルートは抱えているは,街はでかいで忙しい
のに.
インド,パキスタンが原爆を落としたわけではない.
何をバカなことをと顰蹙をかいそうだが,今年に入ってからの,インド,パキ
スタンは許せません,の論調を見るたび,時々そんなことを思う.
11月24日から27日まで長崎で開かれていた国連軍縮長崎会議の意見交換会で
,海外の代表に長崎の学生が「核実験は犯罪だ」と迫った記事を読んで,また
やっぱりそう思った.
実験といったって,これからインドの何も知らなかった人々の上にのしかかる
であろう被爆といった事態や,環境汚染を考えれば,実験もクソもなくこれ自
体ですでに犯罪だとは言える.
しかし,実験も悪いが,使ったか,使おうとしている方がもっと悪いことを忘
れてもらっては困る.
勿論,実験が,今年,つまり,包括的核実験禁止条約が締結され,署名国をど
うやって増やそうか,といった時期でもあり,また,とにもかくにも,国連や
非政府組織(もはやこれらは同じ団体と見るべきだろうが)が,どうやって核
兵器を使わせない体制を作るかに腐心している状況でのインド,パキスタンの
行為は非難されるべきである.
しかし,これらの核実験が犯罪であるのなら,それはもっと前に,いや今でも
,もっと多くの言葉,もっと多くの怒り,非難,ブーイングを核兵器の主たる
鉱脈であるところの,アメリカ,ロシアに向けられなければならなかったし,
今だってそうなのだ.
体制が整って,もはや,核実験のもたらす被害が目につかなくなったアメリカ
,ロシアが,これまでに行ってきた膨大を超えて,なんといっていいかわから
ぬ数の核実験が,今年でない,去年でないことを理由に正当化されるわけでは
ない.
そのことを考えずに,あるいは,なんとなく,そこはもう仕方がないからとい
って無視することにして,インド,パキスタンを非難していれば,実は何をや
っていることにもならない.長崎の学生の気持ちは,日本で生まれ育った人間
とすれば理解できるが,そうでなければ,なんだかへんだ.
インド,パキスタンの今年の核実験は,なんということをしてくれたのだとい
う悲惨な気持ちでこの報に接した人も多いだろうが,考えてみえば,しかし,
こういう可能性はずっとあったのだ.
いわゆる5大国だけが,核を保有し続ければ,そことの敵対関係を持つ国々が
保有したいと考えないはずはないのだ.もし考えないとすれば,いつでも結局
,脅しの前には屈しなければならないと了承しなければならない.
勿論,核を使っての脅しなどしなければそれが良いのだし,相手が核を持って
いようといまいと,そんなことはおかまいなしに全ての交渉ごとをすすめてみ
るというのもいい手だと思う.どうせ使えないだろう,どうだ,と.
しかしこれも,私は,アメリカの傘下にある国に育った人間の考える絵空事で
ないのか,という懐疑を捨てきれない.どこかに軍事的に侵略された経験を持
つ国の人々というのは,そうそう簡単に,まして相手より先に軍備を捨てるな
どとは発想できないのじゃないのかとも思う.捨てるのであれば,同時じゃな
ければ納得しないだろう.少なくとも言質を取って,目に見える何かがなけれ
ば納得しない.インドはいうまでもなく十分に植民地の時代を味わった国であ
る.
日本は,その時,どういう位置づけになるのだろうか.
インド,パキスタンの今年の核実験に際して,なんということをしてくれたの
だという悲惨な気持ちでこの報に接した日本人も多いだろうと書いたが,この
落胆が,核兵器のない世界への取組に対してのダメージに対するものであって
,冷戦が終わってせっかく世界の秩序が整ったというのに,への落胆でないこ
とを私は信じたい.
せっかく整った世界の秩序とは,単なるアメリカだけが強い世界であって,そ
の秩序に対して,日本は,当面どういうなりゆきでかその下で安心という漠然
とした安心感の支配的な国である.しかし,世界中の国が同じ安心感を持って
いるわけではない.
インド,パキスタンの代表者が理解を求めるたびに,自国の都合だけを云々し
ていては国際秩序というものが保てないではないかといった反論をする人がい
るし,新聞も雑誌もよくそう核.しかし,世界で一番自国の都合を言っている
のは,やっぱりアメリカなのじゃないのか.そうしてまた,やっぱり日本はそ
の手の上にあるから,そうじゃない枠組みを見ると,勝手なことを言っている
と聞こえるのじゃないのだろうか.
ひょっとしたら,核兵器廃棄への道筋で,一番議論を整理する必要があるのは日本
かもしれない.というのは,戦勝国アメリカとの関係を憂慮するあまり,原爆ある
いは核兵器を兵器あるいは戦争の延長として考えずに,なにがなんでも悪いモノと
しての核兵器として考えてきたから.これはこれで,道徳的に悪い兵器としての核
兵器という今日の国際社会の結論と一致しているようにはみえる.
しかしこの習慣は,実に特殊な事情の特殊な体験だ.そして,他の国々にとって,
これは,どうしてもまだ,兵器だ.この時,同じ道筋に乗って議論できるのか...